琉球ガラスの歴史!!

今日の投稿は琉球ガラスの歴史をご紹介です。

琉球ガラスの歴史
琉球ガラスは今から100年ぐらい前から盛んに作られるようになったと言われています。日本本土からガラス器が持ち込まれるようになりました。やがて輸送のコストや事故、破損等を考慮して長崎や大阪から職人を呼び沖縄で製造されるようになったそうです。一升瓶や醤油瓶などの透明瓶の屑ガラスを原料として、実用的な「ランプのほや」「駄菓子瓶」「蠅取り瓶」などの生活必需品が沖縄県全域向けに製作されていました。
当時製造されたガラス瓶
第二次世界大戦の沖縄戦10.10空襲で沖縄県のガラス工房が殆ど焼失してしまい、これまで作られていたガラス製品はあまり残っていないそうです。戦後、アメリカ軍統治下にあった沖縄でガラスが使われるようになるのは米軍が持ち込んだコーラやビール瓶などの廃瓶を半分に切り落とし底の部分は切り口をやすりで整えてコップとして利用、上の部分は風鈴として使われたそうです。
当時グラスに使われていたコーラ瓶(昔、祖母も使ったことがあるそうです。)
そうして間もなく沖縄でガラス工場が再開されるようになりましたが物資不足とプラスチックの普及により、ガラスが売れない時期を迎えました。
新たな琉球ガラスの誕生
アメリカ軍基地内に住む米軍人やその家族が写真やサンプルなどを持ち込み日用品として注文したり、本国へのお土産品としてだんだん注目されるようになっていきました。大量注文に対応できるよう軍施設から消費・放棄され出回ったコーラやジュース、ビール、ウイスキーの空き瓶をリサイクル活用し、5色(透明・薄青・茶・緑・黒)の色ガラスとして新しい琉球ガラスの色合いと日曜雑器が次々と作り出されるようになりました。当時の製品は、アメリカ的生活様式・用途による外国の方が好むような装飾的な軍品物が中心で、その中には現在も継続して造られているデザインも少なくはありません。
米軍が注文したガラス器(真ん中のフルーツポンチ入れは琉球ガラス村に現物があります。)
さらに、ベトナム戦争景気が起こり米軍人の本国への土産品としての注文が殺到したため、県内に次々とガラス工房が設立されました。さらに沖縄海洋博覧会で沖縄観光が本格化して行き今度は日本本土の観光客向けに需要が高まりました。その需要に対応すべくリサイクルから原料ガラスでの製造など、工房により技法も原料もざまざまに変化させていく事となります。
現在の琉球ガラス
現在琉球ガラスの工房は県内で個人工房合わせてかなりの数があり原料もさまざまで技術的にもかなり飛躍してきました。私共、MIYABIの琉球ガラス達も高い技術を使った琉球ガラスや、昔の作り方を残しながら今の流行に合わせた色使いをしたり、なるべく琉球ガラスの特徴を残せるように努めております。手作りならではの質感や色合いを楽しんで頂ければ嬉しく思います。